
1995.01.17
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前日の1月16日。
門戸の駅前を通ると、後日行われる「厄神さん」の準備が始まっていて、出店の屋台がチラホラと置いてあったのを覚えています。
そして、その日もいつもと同じように眠りにつく…。
1月17日
未だにハッキリと覚えています。
その時は睡眠中で、家族や親戚一同で飛行機に乗っている夢を見ていました。そして、夢の中では、突如として飛行機が急降下。同時に、地の底から鳴り響く様な「ゴォォォォ」という轟音と共に目が覚めました。
次の瞬間…。
ベッドが激しく揺れ始め、体がアチコチに叩きつけられます。
何が起こっているのか全く理解できず、
ただ布団をかぶって丸くなる事しか出来ません。
時間にすると数秒だったハズですが、自分がどんな状況にあるのかを理解出来ていない状態での暴力的な激しい振動。その時間は、とてつもなく長く感じました。
一方的に揺さぶられる時間が終わり、ガッチリとかぶっていた布団から出ると、部屋の中は竜巻が通り過ぎた後のようにグシャグシャ。天井から吊るしていたスピーカー、洋服ダンス等は完全に破壊されています。
ベットから起き上がろうとすると、1階で寝ていた父の
「大丈夫か~っ!!」
という声が聞こえました。
散乱している様々な破片を踏まない様に部屋を出ると、この暴力的な揺れが「地震」であったと理解する事が出来ました。母は、倒れてきた箪笥同士が支えあった隙間にいた様で奇跡的に無事。どちらかの箪笥が数秒早く倒れていたら、完全に下敷きになっていました。そして、各部屋から出てきた家族は全員怪我はありません。
とりあえず家族の無事を確認し、パジャマのスウェットに手元にあったMA-1をサッと羽織り、散乱するガラスの破片を踏まない様に屋外へ出ようと玄関へ。
ドアノブを回しても、扉は開きません。
どうやら、玄関のドア部分も変形しており、人の力では開ける事ができません。
仕方ないので、玄関に置いてあった靴を持って1階の窓から外へ出る事にします。
窓から体を乗り出し、塀をつたって外へ出ると、辺り一帯はガスが充満しているのか、ガス臭が鼻につきます。どこかのガスが漏れているのか…。それともガス管が破裂しているのか…。
とりあえずは、家族の無事と家の被害状況を確認。
近隣の家も倒壊しておらず、近所の方々も無事の様子。
次は、祖母の安否を確認しようと受話器を取るも、当然の事ながら何にも音が鳴りません。電話線が切れているのか、電話が壊れたのか…。
電話をかけるよりも直接行った方が早いという事で、自分と父の二人で確認しに行く事に。最初に向かったのは、父方の祖母が住む尼崎。
尼崎を目指して車を走らせてすぐ、武庫川の土手へ上がる道が、大きく裂けています。道路の裂け目や凹凸に気を付けながら、徐行で車を走らせていると、尼崎側では数か所から火の手があがっています。徐々に明るくなり始めた空に、黒煙があがっているのを確認できます。
心配な気持ちを抑えつつ、車を走らせて祖母宅に到着すると、部屋の中は食器の破片で溢れているものの、怪我もなく無事でした。10分程度話をしてから次は母方の祖母宅を目指し、再び西宮方面へ。
父と二人で2号線を西へ向かっていると完全に夜が明け、朝日の眩しさと共に被害の酷さが徐々に目につくようになってきます。それは、西へ進むたびに深刻になっていき、中には倒壊している家屋もあります。
移動中の車の中も、徐々に重い空気に変わっていきました。
母方の祖母宅周辺に到着すると、父は車を停めに駐車場へ。
自分は、先に降りて祖母宅へ急いで走ります。
道中の光景は酷い物でした…。
殆どの家が倒壊し、砂煙とガスのにおい…。
四方八方から叫び声が聞こえてきます。
そんな中を走り抜けて祖母宅へ到着すると、家があったハズの場所には玄関の扉しか残っておらず、玄関から先は完全に倒壊していて、そこから先の様子は瓦礫の山で全くわかりません。
家を出る前に、母が「おばあちゃんは、近くの学校に避難しているかも知れないから、家にいなかったら学校を探してみて」と言っていたのを思い出し、近くの学校へ探しに行こうとした瞬間、潰れた家屋の上から叫び声が聞こえました。
「どこや~!どこにおるんや~!!」
聞き覚えのある声です。
「まさか!?」
嫌な予感がします…。急いでフェンスやネットをよじ登り、倒壊した祖母宅の上を覗いてみると、伯父が瓦礫をどかしながら必死に叫んでいます。その瞬間、全てを把握しました。祖母は倒壊した家の中にいるのだと。
直ぐに伯父に声をかけ状況を聞くと、やはり祖母の姿がどこにもないとの事。急いで二人で瓦礫の山をかき分けながら、倒壊した家屋の中にいるであろう祖母を探します。作業を始めると、車を停めてきた父も駆けつけ、三人で木片やら壁やらをどかしつつ、祖母を探します。
当然の事ながら、辺りは砂埃で真っ白。
大きな余震がくる度に、足場が崩れていきます。
「早くしなくてはっ!!」
必死の想いで瓦礫をどけていると、騒音の中に人の声が聞こえた気がしました。父と伯父に作業を止めるように話し、耳に神経を集中すると…。
「たすけて~」
と、か細い声が微かに聞こえてきました。
祖母の声です!!半ば絶望的だと思われていた状況から一変し、生きている事を確認できました!!
急いで声のする場所の瓦礫を、三人で次々にどけていきます。
そして、ようやく祖母を助けられると思った瞬間…。
「????」
そこには誰もいません。
どうやら、倒壊した家屋のせいで声が反響しており、実際にどこにいるのかが全くわかりません。
「どこや~!どこにおるんや~!!」
声をかけながら手当たり次第瓦礫をどけていきます。
ふと顔をあげると、目視出来る距離にあった倒壊している曾祖父母の家でも、親戚の別部隊が必死に瓦礫をどかしている姿が見えました。どうやら、曾祖父母も倒壊した家の中に取り残されている様です。手伝いに行きたいけど…。
ただ、こちらの状況も、声は聞こえど姿は見えず…。
そんな作業が数時間続き、ふと隣の家の崩れかけている隙間を見ると、暗闇の奥で祖母の声。懐中電灯を借りて家屋の隙間を照らしてみると、そこには祖母の顔が!
この時に初めて、家が一軒ずつ丸ごと横にズレているという事に気が付きました。
居る場所が分かれば後は掘るだけです。
ちょうど隣も空き家だったので、なんとか崩れずに残っている2階の窓から入り、父と伯父の三人で畳をはぎ取り、床板を割って、柱をノコギリで切りながら救助を続行します。
この柱が太く、交代でノコギリを入れますが
なかなか切り落とす事が出来ません。
そんな中、ふと曾祖父母宅を見ると、曾祖母は助け出されて無事の様ですが、親戚に担がれて出てきた曾祖父の腕が力無くダラリと垂れ下っている姿が目に飛び込んできました。
その瞬間、どういう状況なのかは離れていてもわかりましたが、直ぐに親戚の泣き叫ぶ声が聞こえてきました。
「あかんかったか…」
そんな悔しい気持ちを押し殺して、ひたすら目の前の柱にノコギリを入れます。
体力も尽きかけた頃、ようやく柱の切断が終わり、床板をはぐと祖母の体が見えました。ただ、祖母の脚は箪笥に挟まれている様で、体が全く抜けません。
次の手が浮かばない…。
ちょうどその時、消防団の方や近所の方も駆けつけて下さり、長い木片でテコの原理を使って大人が6人がかりで箪笥を浮かす事に成功。その間に挟まった脚を抜き、無事救出。
祖母の脚は長時間箪笥に挟まれていた為に出血しており、脚の付け根から深い紫色に変色していましたが、親戚の方が直ぐに病院へ連れて行ってくれました。
この時、時計は既に正午。
鼻に指を突っ込むと、恐ろしい量の砂がボロボロと出てきます。
とりあえず、公衆電話から自宅へ連絡を入れ
自分を含めた動ける人間で他の方の救出を手伝う事に。
後で確認すると、他の親戚も埋まっていたようで、救出活動が落ち着いた夕方に、祖母を含め親戚が運び込まれている病院へ向かいました。
病院に到着すると、そこはまさにカオス。
ベットだけで怪我人を収容できる訳も無く、廊下にも毛布を敷いてギッリシと等間隔に怪我をされた方が横たわっています。
祖母や親戚の方と再会し、今夜は病院で夜明けを待つ事に。深夜になっても余震が繰り返し起こり、その度に病院全体が嫌な音をたててきしみます。
一夜が明けると、病院内は更に混沌としてきました。
廊下には毛布にくるまれた怪我人が並び、更には断水されている為トイレの水も流れず、辺りには悪臭が漂っています。
太陽が完全に昇り切った頃、動ける者が集まって
曾祖父が安置されている体育館へ。
体育館に到着すると、こちらも混沌としています。
並べられた遺体に寄り添う遺族。
ここで一夜を明かしたと思われる方々。
自分も含め、着の身着のまま非難されている皆さんの顔は疲労感で一杯です。
そして曾祖父を探し、親戚の方と合流。
曾祖父にお別れの言葉をかけ、今度は倒壊した親戚の方々の家の中から、貴重品を掘り起こす作業に出掛けます。この時、倒壊した家屋の中から食パンを発見し、それをそのままかぶりつきます。これが、地震発生から丸一日ぶりの食事になりました。
そして、回収作業を進めますが、瓦礫の山と化した家屋から探し出すのは難しく、なかなか思うように進みません。もちろん、お腹が空いてもコンビニなんかが営業している訳でもなく、瓦礫の山から出てきた缶ジュース等で水分を取りながら、地道に掘り起こしていきます。
日も傾き、夜が近づいてくると辺りは真っ暗になるので作業は終了。
一旦病院へ戻り、祖母らの付き添いがてら、再び病院で夜を明かします。
それから3日間程かけて、各親戚宅の貴重品を掘り起こして回収し、とりあえず動ける者は一番被害が少なかった我が家へ集まる事に。
ただ、電気・ガスはもちろん水道も使えず、日が落ちると真っ暗。更には、この季節で暖房器具は石油ストーブが1つだけ。このストーブに、大人が7人で固まるように集まり暖をとります。
そして、そのストーブの上部に鍋を置き、備蓄してあったミネラルウォーターにインスタントラーメンを入れ、それを皆で分け合って食べます。
幸いな事に、トイレの排水は破損しておらず、トイレを使う事は可能でした。もちろん、水は出ないので近所の畑にバケツを持って歩いて行き、上下にキコキコ動かして使う昔ながらのポンプで水をくみ、それをトイレに使用します。
事態が好転したのは4日目の朝を迎えた時でした。
大阪方面に住んでいる友人達が、連絡のつかない自分を心配してバイクで駆けつけてくれました。どうやら、地震後に何度か来てくれていたようですが、貴重品を掘り起こしていたり、祖母の付き添いで病院に居たので、会えなかったみたいです。
とりあえず、友人達に状況を説明すると、貴重品集めを手伝ってくれる事に。
男手が一気に増えて、作業もどんどん進みます。
友人達のおかげで、2軒分の回収作業も終了し
そのまま友人宅へお邪魔する事になりました。
その友人達は、全員が大阪方面なんですが、バイクで大阪方面へ進むたびに、今まで「普通」だと思っていた生活感が目に飛び込んできます。
そう!大阪には電気がついています!!
どうやら、大阪方面は激しく揺れたものの、ライフラインへのダメージは少なかったようで、一歩地元を離れると、そこには「日常」の生活がありました。
友人宅にお邪魔すると、友人の母がお風呂や食事を用意して下さっていて、まずは4日ぶりのお風呂タイム。
体を洗うと、勿論の事タオルはドロドロ。鼻の中から砂利も沢山出てきますし、洗顔を流した水は茶色く濁っています。体を綺麗に洗って、4日ぶりの入浴。
これは、本当に天国かと思うほどの心地よさ。
お風呂からあがると、カレーを用意して下さっていて、久しぶりのまともな食事。何回もおかわりをして、お腹一杯食べさせて頂いたのを今でも覚えています。
お風呂やご飯の間に、4日間ずっと着っぱなしのスウェットを洗濯して下さっていたり、帰りにはカセットコンロやボンベ、飲料水等を持たせて頂き、精神状態を一旦リセットさせて頂きました。
そして、友人に自宅まで送ってもらうと、やはり地元はまだまだカオス状態。
ただ、この日から友人達が毎日食料や飲料水などをバイクで届けてくれるようになり、食料等の心配は無くなりました。相変わらず、夜になると冷え込むし真っ暗ですが、数日後から体育館で救援物資の支給が始まり、毛布や食料も手に入れる事が出来ました。
この頃になると、街中には他府県のパトカーや自衛隊の車を多く見かけるようになります。
道路は大渋滞で、バイクが大活躍。
ただ、地元のガソリンスタンドは「緊急車両以外へのガソリン販売」を停止しており、ガソリンを入れる為に大阪方面へ出なくてはなりませんでした。
ここから2カ月以上、倒壊した祖母宅や親戚宅の片づけを行っていましたが、1カ月を過ぎたころから水道・電気・ガスといったライフラインが数週間おきに回復し始め、怪我を負った親戚や女性の方達は四国の病院に受け入れが決まり、ようやくまともな治療を受ける事ができました。
その後も、親戚の方々の仮設住宅への入居を手伝ったり、バタバタとしていました。
とりあえず、通常の生活に戻ったのは、桜が咲く季節だったと思います。
今回、何でこんな話をしたか。
このブログを読んで下さっている方も、似たような経験をされた方は多いと思います。
ただ、「被災」したからといって、「次に備える」事が出来ているかといえば、残念ながらそんな事は無いと思います。
ハッキリ言って、あの「揺れ」と「破壊」の中では、人間は無力です。
多分、次に同じ事があったとしても、どうする事も出来ないと思います。
建物は破壊され、辺り一帯は混沌となる。
交通は麻痺し、情報が交錯し、物資も不足。
何をしていいのかわからない…。
でも、この時の経験を思い出してみると、辛い事はあっても「嫌な想い」をした事はなかった。
地震当日から数日間は、近隣の方達が協力し合って瓦礫を掘り起こし、「どこどこの銭湯が営業を開始した」「どこどこで救援物資の配給が始まった」なんていう情報を自分達で集めて共有し、お互いがお互いを想って行動する思いやりに溢れていました。
救援物資の食料をもらいに行けば、他府県から集まって下さった炊き出しの方達が、温かい豚汁と一緒に、暖かい言葉・暖かい心を下さりました。
ガソリンを給油しに大阪方面へバイクを走らせると、ナンバープレートと自分の服装を見て、「ガソリン入れておくから少しでも中で温まっていき!!」といって暖房の効いた待合室に毛布と暖かいコーヒーを持ってきて下さったり。
街はボロボロ、服もボロボロ。
真冬にライフラインを断たれた生活は厳しく、皆の心は疲労で消耗し、街は様々な大切な物を失った悲壮感で溢れてたでしょう…。
でも、そんな気持ちを押し殺して、他の人の為に出来る事を探す。
お互いがお互いを想いやる「心」が、あの場所にはありました。
もし同じ事が起こったら…。
大切なのは、この時のように
「人を想いやる心」
なのではないでしょうか…。
生活に関するお知らせ
現在、グルメや車・日常生活に関する内容は、新ブログ『まころぐ』にて更新中です。当ブログよりも、丁寧に解説するよう心掛けていますので、宜しければチェックしてみて下さい!!
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。今回の投稿と同じカテゴリーにある、次の記事は「一風堂」、前の記事は 「な…なんじゃこら~!!」となっております。
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今日はこの阪神間という地に住む我々にとって特別な日ですね。
私は当時も尼崎に住んでいました。
幸いにも自身含め、身近な人にも大きな被害はありませんでしたが
1ヶ月以上ほんと大変な日々でした。
「人を想いやる心」大切ですね。
住宅関係という仕事柄ほんと数ヶ月間は大変でした。
しかし、ガスの復旧の早かったお客様から
「うちのお風呂、入りに来て」といわれたり
差し入れを頂いたり・・・。
人と人との関係が希薄になってきている昨今
大変な毎日でしたが、人間も捨てたもんじゃないって思えました。
人が常にこんな心を忘れなければ、きっと世の中の悲しい出来事はなくなるんじゃないかって。
しかし「喉元過ぎれば熱さ忘れる」
スイッチを入れたら電気がつくありがたさ
水道を捻れば水が出る素晴らしさ
人を想いやる心の大切さ
そんなことを忘れないように、この日を大切にしていかねばなりませんね。
この日になると思い出します。
最初は、立花の祖母宅へ向かったのですが
山幹を走っているとチラホラ煙が上がっていました。
武庫川沿いも、車が走れるのか?と思う位割れていたり…。
この時は、数ヶ月間大変でしたが、逆に「人」の暖かさを一番感じられた時だったように思います。
確かに、あの時の事を考えれば、「喉元すぎれば…」になってしまっていますね。
電気。ガス・水道…。
あの時は、ライフラインの重要さを痛感したはずなのに…。
ただ、「人」が結束すると、あんな風に暖かい気持ちになれるんですよね。
ライフラインも重要ですが、その事の方がもっと大事なのかも。
特に、今の日本には…。
関西に住んでいると、いろんな方からこの日の話を聞きますし、うちの嫁の家も倒壊してしまったそうで、当時の状況は聞いています。
実は僕、94年の春まで尼崎に住んでいたのですが、一旦実家のある広島に戻ったんです。
そして95年の1月16日、大阪で行われるあるコンサートを見るために友人と二人で来ました。
昼間は三宮をブラブラして、夕方から大阪の厚生年金会館へ。終演後は夜遅いので、三宮で一泊して翌日も神戸で遊んで帰る予定になっていました。
ところが16日の夜、終演後に友人が突然「帰りたい」と言い出したので、仕方なく新大阪駅まで急ぎ、ギリギリの便で広島まで帰ることになりました。
17日早朝の事態を知ったのは、その友人からの「すぐにテレビつけろ!」の電話でした。
テレビに映った映像を見て声が出ませんでした。すぐに神戸の友人に電話をしましたが、何日経ってもつながりませんでした。
あのとき、なぜ友人が帰ろうとしたのかが不思議です。
いつもはそんなこというタイプではないので余計に考えてしまいます。
それから9ヶ月ほどが過ぎて、再び以前住んでいた尼崎に行きました。
学生時代、新聞配達のアルバイトをしていた販売所があったから。お店は多少ダメージを受けたようですが、幸いなことにみなさん無事でした。
でも……、駅を降りて変わり果てた街を見ながら歩いたときのことは忘れられません。
電話がつながらなかった友人も無事でした。
……というわけで、僕は体験していないんです。
当時被害に遭われた方がどんなに辛い思いをしたか…、たぶん体験していない僕らが想像できるレベルは超えているのだろうということは想像がつきます。
だから「大変でしたね」と簡単に言えません。
いつまでも絶対に消えることのない記憶でしょうからね。
「人を想いやる心」忘れないようにしたいと思います。
FJさんの御友人、ムシが知らせたんでしょうね~。
読んでいて鳥肌がたちました。
ホント、一日早く関西を経っていて正解だと思います。
あの状況に巻き込まれたら、地元の人間でも何をしていいかわからないのに、出先の方ならもっと混乱してしまうと思います。
それに、自宅へ戻る手段すら見つけられるか…。
とにかく、交通手段が殆ど麻痺状態で、電車はもちろん動いていないし、道路は通行不能だったり、大渋滞でしたから。
ただ、ああいう局面に出くわすと、「何をしていいかわからないけど、何かをしなくちゃ!!」っていう気持ちになって、自然と行動する事が出来ました。
人の暖かさを感じる事ができたのは、殆どの人が同じ気持ちだったからでしょうね。
それに、他府県の方々にも本当に親切にして頂きました。
二度と体験はしたくありませんが、何事も最後は「心」が大事なんじゃないでしょうか。
あれからもう16年ですか…
朝のニュースであちこちが燃えている街の映像を見た時は、最初は海外の映像かな?と思っていましたが、阪神と聞いて驚き、火災の理由が大地震と聞いて二度ビックリ
関東地方や東海地方は以前からいつ大地震がきてもおかしくはないと聞いていましたが、地震に関しては国内では比較的安全と思われていたあの地域が大地震にみまわれたのは、本当に予想外の出来事でした
後日、新聞の一面を飾った橋脚がポッキリ折れた高速道路の写真が今でも記憶に残っています
昔に比べて、他人に対しての『思いやりの心が失われた』と言われる現代の日本で、もしあのクラスの大地震が首都圏を直撃したらどうなるのか…考えただけでも少し背筋が寒くなる思いです
『阪神淡路大震災』で亡くなった方々の冥福をお祈りいたします
千葉に住んでいる時は、頻繁に大き目の地震があったので、自分も「震災」に出くわすなら関東でだと思っていました。
住んでいる時から、大きな地震がいつきてもおかしくないっていう話も出てましたし。
関西へ戻ってきて、殆ど地震なんてなかったので、本当に「まさか」の気持ちでした。
数週間、こちらと連絡がとれなかったので、関東に住む友人達は、テレビの犠牲者欄に載っていない事を祈る気持ちでチェックしていた。と後から教えてくれました。
ポッキリ折れた高速道路は、多分うちらの地元だと思います。
ばんぱくさん。別に「備えを」と言うつもりはないですが、寝る場所に倒れてきそうな物は極力何も置かず、近くに靴や水があるとベターだと思います。※色んな破片が散乱するので。
備えあれば…。ですかね。
自分も犠牲になった方々のご冥福をお祈りいたします。
何故MACOさんが初対面の人に対して、常に友好的でやさしく、暖かい人柄なのか理由が何となく分かったような気がします
青年期のこの時の辛い体験が、MACOさんの人格形成のベースになっているんでしょうね、きっと
因みに自分の部屋の現状ですが、頭上に炊飯器、足元に巨大な本棚があるという非常にデンジャラスな状態なので(笑)、大地震がきたら炊飯器で頭部直撃、下半身は本棚で潰されるという、かなり悲惨な結果になると思います
あと自分は視力がすごく悪いので、メガネがないとおそらくアウトです
いやいや!そんなに優しくないですよ!!(笑)
それより、ばんぱくさんの寝ているポジション、かなり危険ですね~。もしもの時は、布団かぶって丸くなって下さいよ~!!それと「メガネ」は必ず身近な場所に!!(^_^;)
でも、共通した大きな出来事があると、人は助け合えるのかもしれませんね。
「人と人とがわかり合える」
どこかで聞きそうなフレーズですが(汗)
そんな時が来ればいいんですけどね…。
私の震災体験は、発生後数日して芦屋にひとりでいた母親を迎えにきたことぐらいです。
父は姫路で仕事をしていて、足止め状態でした。
阪神電車が甲子園までしか動いてなくて、そこからとにかく43号線ぞいを歩きました。
ニュースで見たものがそのまま目の前にありました。
たったそれだけの体験ですが記憶には残ってます。
1ヵ月ぐらいして母は戻りました。
30過ぎた大人でも、なにをするべきだったのかまったくわからなかった。
43号線沿いは、特に酷かったですよね。
あの時。
一緒に住んでいる家族の無事を確認したら、一人暮らしをしている両祖母が本当に心配になりました。
倒壊した家屋に埋まっていた祖母も、僕が懐中電灯で照らして見つけた時、本当に嬉しかったと話してくれていました。そこから助け出すまでも時間がかかってしまいましたが…。
何をすべきかわからない時…。
本当なら大声で「何か手伝います!!どうすればいいですか!!」と叫ぶ事が出来ればいいんですが、これにも勇気がいりますよね。
うちは大阪にいましたが、けっこう凄い揺れでしたιι
テレビを着ける前まで大阪が1番揺れたと思ってましたが、テレビを着けて唖然としたのをよく覚えてます。
この日にならないと思い出さないほど記憶が風化してますιι
直接の被害者ではない人も、あの日の記憶忘れないようにしないといけませんね。
本当に何が起こったのか分からない程の揺れでした。
大阪方面の友人がいてくれた事、どれだけ心強かったか…。
もし、あんな場面に銀ちゃんがいれば、真っ先に人助けしてそうな気がします。
お久しぶりです。
何年経ってもこの日の記憶だけは鮮明ですね。
当時は小学生で何もできることはありませんでしたが、ひたすら配る用のおにぎりのお手伝いをしていました。
本気で人のために何かをしたのはあの時が初めてだったかもしれません。
この日になると毎年色々なことがフラッシュバックしますが、色々な意味で自分の中で何かが変わったことだけは間違いありません。
当時オリックスの田口さんに
「したいと思ったことは明日からじゃなく今からしろよ」
と言われて子供ながらにひどく感動しました。
「じゃあバットください」って答えたんですが…
こうして釣りができることに感謝して亡くなった方々の分も思いっきり楽しまないといけませんね!
※すみません読みながら書きながら少し感傷的になってしまいました!
おひさしぶりです!!
普段は忘れてしまっていても、この日になると鮮明に思い出しますね。
震災後の炊き出しをして下さっている方々の暖かさ…。「人はこんなに優しいものなんだ」っていう気持ちと、感謝の気持ちで一杯になりました。
また、そこで頂いた汁物が美味しかった事。
芯まで冷えた体をジンワリと温めてくれて…。
もう、あんな体験は味わいたくないですが、人の心・優しさに触れる事ができたのも事実です。
あんな素晴らしい想いやりができるのなら、日常も暖かい気持ちになれるんですが、日々の流れについ忘れてしまいます。
お互いを思いやる気持ち。
大切ですね。
MACOさん!僕もおばあちゃん子で一番に芦屋まで自転車を飛ばしたのを覚えてます。
祖母の家は倒壊したものの、祖母には怪我はなく避難所で手をギュッと握られたのを忘れられません。
そんな祖母も今は寝たきりになり、もし今度、震災が起きれば逃げ出すことはできないでしょう!
自分に何ができて、何をすればいいのかは分りませんが、MACOさんの言うとおり(人を想いやる心)
を持っていれば、自分の大事な人も守られると信じたいですね。
自分も、おばあちゃん子だったので、倒壊した家屋に埋まっていると知った時は、本当に血の気が引きましたし、無我夢中で掘り起こしました。
「人を思いやる心」
本当なら、日常生活の中でも必要なシチュエーションは多々あるんでしょうけど、知らない方に声をかけるって、なかなか勇気がいりますよね。
ただ、それを頭で考えて行動するのではなく、自然と体が反応する人間になりたいです。
普段から頑張らないと!ですね。
当時から大阪在住の私は正にバイク部隊で会社の同僚の所(西宮、宝塚、芦屋)へ
往復する毎日でした。二度と経験したくないですがこの事実を風化させてはいけませんよね。
今、普通に生活できる事に改めて感謝しないといけませんね。
この時は、hosoさんのような友人に、本当に助けてもらいました。
道路も大渋滞で、バイクじゃないと動けなかったですもんね。
友人がNSRにポリタンクやら食料やらを積んで、何往復もしてくれたのは忘れられません。
この事以外でもそうかも知れませんが
家族や友人がいてくれて
「普通に生活」
できている事っていうのが一番嬉しい事なんでしょうね。
あの時は、本当に人の想いやりをひしひしと感じました。
当時、私は京都に住んでおり、あの日は仕事で滋賀県のホテルに宿泊してました。
揺れで目が覚めたのですが、そのまま二度寝
次に起きた時にテレビで凄い事態になっている事を知りました
慌てて長田区の実家に電話しましたが、通じる事は無く不安な一日を過ごした記憶があります。
幸い実家は被害も少なく、家族もまた親しい友人達も無事でした。
それから数ヶ月間、当時はバイクを持っていたので、土日毎に神戸へ物資を運んだり、避難所へお手伝いに行ったりしておりました。
そんな時、「これも持っていき」とバイクで信号待ちしていた私に声をかけてくれた方、避難所に色々な物資を持ち込まれる方、堺からプロパンガスを持って配管工事に来られたガス屋のおっちゃん
色々な心暖まる素敵な現場に遭遇しました。
日頃からあのような気持ちに誰もがなれば、良いですね。
あの時、出来たのですから必ず出来るはずです
「あの時、出来たのですから必ず出来るはずです」
Goさん、この一言…
心にジーンときました!!
本当にその通りだと思います。
あの時は、全然知らない人同士が助け合って、一日一日を過ごしていたと思います。
自分も、何度暖かい言葉や心を頂いた事か…。
炊き出しや救援物資の配給に来て下さっている方に元気づけられ、被災した方々とは全く知らない方でも言葉に出来ない共通した何かを持っていた気がします。
こんな辛い「何か」がなくても、日頃からあのような気持ちに誰もがなればいいのですが…。
「あの時、出来たのですから必ず出来るはず」ですよね!!
1月17日のあのとき、電気通信の仕事をしていたので、すぐに復旧に舞子に行きました。
15時に会社を出、着いたのは次の日の朝でした。
いろんなことがありましたが、知らない同士が助け合い、何度も暖かい言葉や物を頂きました
。
略奪も起こらず、パニックにもならず、日本人の優秀さを改めて思い知りました。
伊達直人現象もその延長上にあるのかも知れませんね。
あの時、電気が無い生活っていかに不便なものなのかを思い知りました。
電話に関しても、つながったりつながらなかったり…。
何故だか、公衆電話だけが正常に機能していて、公衆電話に長蛇の列が出来ていたのを覚えています。
でも、人は暖かかった…。
今のタイガーマスク運動も、そんな暖かい気持ちの集まりなんですかね~。
なんだか息苦しいニュースが続く中、ホッと出来る優しい気持ちになります。
僕は当事も尼崎でほとんど被害にあわなかったのですが、職場が新開地だったのでもし早出する事があったら今ここに存在しなかったかもしれません。
実際、担当エリアが西播と兵庫の日本海側で早出は当たり前でしたし。
昨日というか今朝ですね、釣りしてるときに時計が見える場所がありまして、ふと時間を見たときに震災の時刻まであと何時間もないねんなあと思うと夜中に好きな釣りを思い切りできてる事がしみじみと幸せやなあとふと思ったりしていました。
ほんの些細なタイミングが運命を決める。
震災に限った事ではないですが、まれにこういうシーンに出くわす事がありますね。「後数分違えば危なかった」とか…。
震災時に、その時刻で止まったままの時計をよく見かけましたが、その時計を見る度に何とも言えない気持ちになったのを覚えています。
釣りを楽しめるっていう事、何気ない事なのかもしれませんが、これも嬉しい事なんですよね~!!
1階がペシャンコなのに家族全員命があったのは奇跡的でもありました。
被害に会った者同士は、当たり前に協力していました。
数日して全壊の家から大切のものを持ち出している時、「何かくれ」とウロウロ
してる奴がいました。瓦礫の中をゴソゴソ。殴りそうになりました。
後日、家から物を運び出してる時に近くに置いていたデイパックは盗まれました。
ほとんど何も入れてなかったのですが、壊れた家を撮ったフィルムを入れてた
のが悔やまれました。
それでも、お互い助け合う気持ちを日本人は持っていると思いたいものです。
その状況で無事で何よりでした!
寝ている場所、家具の配置…。
様々な偶然の要因で事なきを得た方は沢山おられました。
偶然だったのか…。必然だったのか…。
確かに、あの時は崩壊したコンビにや商店から商品を持ち出す輩がいたようですが、そんな一部の人間よりも、善意の心で集まって下さった方が沢山いたように思います。
それとは別に、「想い出」が失われるのは悲しい事です…。
祖母宅の倒壊した家からそれらを探している時、なんとも言えない悲しさがありました。本当に…。
色んな想い出が、瓦礫に埋まってしまいました。
「想い出」も心の一部なんでしょうね。
あのような災害が二度と起こらない事を皆が願っているのですが、しかしその後も起きているのが事実です。
息子達は学校でこのような災害の記録は学ぶでしょう。
被災した親として、あの時の熱い人間模様を通して、いつか来るかも知れないその時に何をするべきかを息子達に伝えられればと思います。
確かに、あの状況で困ったことは本当に沢山ありました。
ライフラインの件もそうですが、連絡が取れない為に安否の確認は出来なかったですし…。
我が家では、万が一家族がバラバラになっている状態で災害にあった場合、とにかく「ここに集合」という場所を決めてありました。
※関東にも住んでたので、アッチは地震が多かったですから…。
とにかく、安否を確認して家族が集まる事が第一ですよね。
私の4畳半月1万7千円の寮は全壊でした。
2階に住んでいたのですが、隣部屋の友人と下の階の方と大家さんが亡くなりました。
私の部屋(らしき)ものは、瓦礫の一番下でした。
私は琵琶湖にバス釣りに出かけようと実家によっていたので助かったのです。
昨日は、地震後に青木で仮設住宅に住まれていて、今はバーをやられている方の店でしみじみ飲んでました。地震のことを知ってもらうために、自ら何曲かを作詞作曲し、県外のあちらこちらの小学校や中学校で演奏されておられます。
兵庫県内でも地震後に生まれてきた子供たちと会う機会も増え、「もう県内でもやらなあかんなぁ」と話されてました。
そんな夜でした。
三吉さん…。
釣りに命を助けられたんですね。(その可能性もありますね)
自分の親しい人が亡くなったり、傷ついたり…。
あの時は、どうする事も出来ませんでした。
そういえば、今の小中学生は震災を経験していないんですよね。
「伝える事が大事」
という事はわかっていても、実際に何を伝えればいいのか、どのように伝えればいいのかが自分にはわかりません。
そのマスター、凄いですね。
毎年、17日になると当時を思い出します。
自分も、身近な子供たちに話してみる事からはじめようかな。
波打つコンクリートは今でも鮮明に覚えています。
自分は43号線が忘れられないですね~。
そこから今に至るまで、様々な過程を見てきましたから…。
それを考えると、ここらも随分変わりましたよね